「人間失格」を読んで
こんにちは。はじめまして。
読書感想文、第2弾です。
どうでもいい話ですが、高校時代に国語の先生が授業中に「今まで読んだ本の中で出だしの文が一番印象的な本は何?」と一番前の席のクラスメートに質問したところ、その子が「人間失格の『恥の多い人生を送ってきました』です。」と答えていた記憶があります。
そんなことを思い出しながら表紙をめくると、出だしの一文は「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」となっていて、なんだか裏切られた気持ちになりました笑
ご存知の方も多いと思いますが、この作品は葉蔵=その男が書いた手記がメインになっていますが、最初(はしがき)と最後(あとがき)の部分にだけその手記を読んだ「私」が登場するんですね。
この本のあらすじ
「恥の多い生涯を送ってきました」3枚の奇怪な写真と共に渡された睡眠薬中毒者の手記には、その陰惨な半生が克明に描かれていました。無邪気さを装って周囲をあざむいた少年時代。次々と女性に関わり、自殺未遂をくり返しながら薬物におぼれていくその姿。「人間失格」はまさに太宰治の自伝であり遺書であった。作品完成の1か月後、彼は自らの命を断つ。(Bookデータベースより引用)
目次
- 主人公・葉蔵の人物像
- 葉蔵と女性たちの関係性
- 感想
- 葉蔵の人物像
・幼い頃から周りの反応を伺って道化を演じる葉蔵。
・父に見放されることを大変恐れている。
・要領よく物事をこなし、ワザと失敗することまで気を回し愛されキャラを演じる。
・空腹を感じたことがなく、人間の営みに疑問を呈している。
これだけ見ると幼少期の「葉蔵」からは「なんか嫌な子供」という印象を持ちますね。5歳6歳でこんな事考えてると思うとちょっと気味が悪いです。
僕は「クソガキ」って言葉にはどこか愛らしさがあると思うんですが、葉蔵にはクソガキの要素が欠落しているように感じます。計算された愛嬌ほどいやらしいものはないというか。
- 葉蔵と女性たちの関係
作中、葉蔵と恋仲になる女性が3人登場します。
一人目のツネ子は刑務所にいる夫の出所を待ちながら銀座の大カフェで働く女です。
一度は別れを告げるもその後再び逢瀬を重ねることになり、すでに精神的に病んでいた二人は心中を図ります。
ある意味で似た者同士な印象があります。
二人目のシヅ子は雑誌の出版社で働く未亡人の女です。一人娘と二人で暮らしており、葉蔵は娘の面倒を見ながら漫画を描かせてもらうことになります。
シヅ子と娘の深い親子愛を目にした葉蔵は「自分はこの家に相応しくない」と考え、結局シヅ子の前から姿を消します。
しかし、シヅ子と同棲する中で「世間とは個人だ」という一つ発見があり、「自分が今まで恐れてきたものは案外大したものじゃないのでは?」と心に変化が現れます。
個人的には「もし葉蔵が死ぬまでシヅ子と添い遂げていたなら人間失格という結末にはならなかったのでは」と思いました。
三人目はシヅ子のもとを離れた葉蔵が転がり込んだバーの向かいにあるタバコ屋の娘・ヨシ子です。
ヨシ子は純真無垢な性格で、その人柄に惹かれて(押し切られ?)葉蔵も結婚を決意します。
しかし、ある日自宅の2階で葉蔵が友人と雑談をしている時に、台所でヨシ子は疑うことを知らない性格のせいもあり男に犯されてしまいます。
そこから再び葉蔵の精神は不安定になり、モルヒネに手を出すことになってしまいます。
ヨシ子は葉蔵が恋仲となった女性のうちで、唯一年下の女性です。
葉蔵は過去に関係を持った女性と再び会うことに抵抗を感じる性格だと描かれていますが、ヨシ子が強姦されたことが、
あまりにもショックで「なかったこと」にはできなかったのでしょう。
人間失格だと悟った葉蔵が最後に見せた人間らしい一面だったと思います。
- 感想
いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎていきます。(p144)
最終場面のこの言葉が痛切でした。人間でなくなるというのは幸も不幸も感じなくなることなのか、それとも別の次元で生きているだけなのか、解釈は人それぞれかと思います。
世間というのは、君じゃないか(p97)
世間という概念は日本独特で面白いと思います。「お天道様が見ている」の「お天道様」が指し示すものはその国の信条や宗教によって違う。
日本では「お天道様」は「世間」なのではないでしょうか。
だから、世間の目、評価を恐れる。でも実はその世間は幾多もの個人の集まりに過ぎない。それに気づいた時、葉蔵は心底安心したのだと思います。
今回、はじめて「人間失格」を読んで見ましたが、太宰治の信条やポリシーを文字の中に直に見ることができ、100ページ程度でしたが。読み応えがありました。
以上、最後までお読みいただきありがとうございました。次回もよろしくお願いします。
ハイジ